ふとしたことより

みなさん、こんにちは

今週の修羅場を乗り切り脱力モードのあほーどりです。

先ほど生協に行った際にふとこんな本を買ってました。



まだ全然読んでないけど、書き出し30ページを読んでちょろっと考えたことをば。


この本では、「日常って何ですか?」と問いかけることから話を始めています。
普段生きてる生活を総称して日常と呼んでると思うけど、では日常とは一体何かって考えると説明が難しい。

普段我々学生は毎日授業に行き、課題をやり、研究をしたり、遊んだりしてるわけですが、これも日常。
日常ってどこからどこまでを含むかって考えるとそういう定義はできない。だから歴史性を持ってる。
そして、日常について考えると、それに付随して「生きる」って何?となる。
生きるって何なんでしょう。どう生きるのがよいのでしょう。

人間は生まれた瞬間より、他者が作り上げてきた世界に入り込んでいきます。そこでは、常に他者との関係性より関係づけられます。
そういうと、引きこもりの人とかはどうなるのか。
もちろん何らかの形で他者とつながっています。
人間は生きるために、食事しなければならない。その食事をするには、何か野菜やお肉、カップ麺などを買って調理するというプロセスが不可欠です。その野菜などを作っている生産者、そしてそれを流通させる方々、それを販売する方々。
全ては他者との関連から逃れられない。

この作者は「生きる」という映画を例に挙げている。映画のあらすじについては割愛するが、簡潔に述べると、その題名通り「生きる」という普遍的なテーマに真っ向から切り込んだ作品であるそうだ。

普段我々は多くの取捨選択、意思決定を行っている。その中には気になる情報、興味のない情報など様々なものが含まれているだろう。

真の意味で生きるにはどういうことを行うのか?
どういった意思決定を行うのか?

永遠の問いですね。

けど、この問いは重要なことでもあると思う。
他者との関連する世界に自分が生まれ出たことというのは何かしら意味があるのではないか?と考えること

自分の生きる意味を早く見つける人、死ぬ間際に気づく人、一生かかっても気づかない人、そもそも意味すら問おうとしない人

いろんな人がいると思います。

まだまだ自分が模索中の段階なので何にも言えないんですが、こういったつらつらとよくわからないことを文字にしたためることにも何かしら意味があるのではないか、そんなことも思うのでした。


あ、ちなみに別に病んでるわけではないです。