預言者ピッピ 読んだ感想
今書かなかったらもうこのブログ使わないんじゃね?って勢いで放置してたので、思ったことを書いておこうと思う。
最近書き起こすと言うことをしないから頭が弱っていって大変な気がしている。
予言者ピッピ一巻
もちろんまだ二巻は買ってないけど買うことは確定している。そういう未来の下にある。
本作品は地震予知予言ロボットのピッピが成長して行く様子を描写している。一方で、この成長が現在話題になっているシンギュラリティなどの話にも直結している。
ロボットはどこまで予測ができるのかと言うことはよく議論に挙がる話である。
その中で、どこまでが予測として表せ、どこからが完全に予測できないのか?その境界はどこにあるのか?
本作品ではそのメッセージを警告としてピッピを発明したパパが行っている。
物事はすべて予測できるのか?これは人類の課題であるが、すべてのことが予測できるようになるというのはラプラスの悪魔で言われたことである。
東進の苑田神の授業を受けたことがあるならば聞いたことがあるはずだ。
「運動方程式に定まって事象が動くのであれば、初期状態を与えられればすべての物事の動きは予測できる」
これがラプラスの悪魔の中身であり、すべての事象が関連している中でその関連を解き明かすことができれば、すべての事象を予測できる。
一方で、ロボットの視点から眺めたときにすべての事象を解き明かした際に人類の未来がわかってしまいその未来がよくないものであるとすれば、ロボット側は
未来改変を行うことに手を向けるだろう。
これが人類をロボットが超えて反逆する可能性があるという科学者の主張である。
つまり、進化か絶滅と言うことになる。
この漫画の中でのメッセージ性とは、
人類を超越した人工知能が生まれた際、人類は完全に人工知能の手のひらの上で踊ることになる。
その危険性を指摘し、人類を超越した機能の実装するべきではないという、パパの指摘。
一方で、世間のためという名目上に盲目的なロボットへの信仰を続ける科学者との対比構造をうまく示すことだと思われる。
ヒューマンインタフェース論にもあるが、基本的に人間は自堕落なものであり、何かに頼れるときはそれにすがるものである。
これは宗教の信仰にも通ずるものであり、宗教はそうした人間の軸になる。一方でよくもあり悪くもある。
常に正しいことを予測する機械というものがあればそれをみんなが信仰することになり、一方でそれは盲目的なものになり得る。
その先にあるものがどうなるのかはすべてロボットの中のみにある。
つまり、人間の自由意思というものの存在を否定することになる。
この危険性のために人間はクローンを作ったり高度な人工知能を作るべきではないという議論にもなる。
現状の技術ではおそらく到底そこまでの領域に到達できていないと思われるが、これが数十年後どうなっているかは我々の知る予知ではない。
少なくともデータを扱う分野においてはもう人間はコンピュータに勝つことはできない状態になっていると思う。
その中でどう人間が自身の立ち位置を見いだしていくかが今後の人間の課題かもしれない。
この話の中には、忘れると言うことの重要性を指摘しているところがある。
人間の記憶というものは膨大なようでかなり取捨選択が常になされていることはみなさんもご存じだと思う。
たしか人間の頭の容量というものは数テラバイトであったはずである。そのほかの情報というものは、大脳に保管されず忘れていくことになる。
普段の日常でも、日常の些細な違いなどは認識されない。視界に入っているからといって認知されているとは限らない。
この忘れるという機能は本来備えるべくして入っているのではないかという話である。
コンピュータプログラムは忘れるということができない。すべてはデータという形で保存される。
たとえ消去プログラムというものがあったとしても、プログラムを完全デリートしない限りどこかには残るはずである。
つまり、いやなことというものが常に頭に残ることになる。
人生は楽しいこともつらいことも様々なことがやってくる。忘れるというのはそうした心の中で生まれるストレスとの戦いでもある。
プラスなストレスもマイナスなストレスもある。このストレスとの戦いは人間として生まれた宿命なのかもしれない。
とりあえずいろいろと学びは多かったと思う。自分としてはあんまり映画などは見ず漫画でいろいろと学んできたので、漫画で得られるものも多いかもしれないねということを
説明したい記事だった。